以上のことでエジプトのことはだいたいわかってもらえただろう。ここからは本題のピラミッドについて述べていきたい。はじめに述べたようにピラミッドについての疑問は数多く挙げられる。その中から一番疑問に思う、ピラミッドはなぜつくられたのかについて考えることにした。
エジプトの地図を広げると、そこには特別に三角形の記号が付されているのがわかる。それは点々と散在するというよりは、線状に配置され、ほとんどはナイルの西側に位置している。三角形のしるしはもちろんピラミッドを表しているが、その一部集中の状況はかなり奇妙である。エジプトには総数79基のピラミッドが存在するのに、そのうちナイル東岸に存在するのはわずかに、エジプト中部のザーウィヤト=エル=アワムートにある1基だけである。これは基辺18mの階段ピラミッドといわれるが、現在は廃墟と化しており高さは不明である。第三王朝のものと推測されているが、築造者はわからず王ではない可能性もあるという。
そうなると、エジプトのピラミッドのうち、重要なものはすべて西岸に存在することになる。これは不思議な話であるが、ピラミッドを墓と考える人が多く、ナイルの西岸が黄泉の国にふさわしいとしてほとんど疑問は提出されていない。
そういわれてみれば、ナイルの西岸にはテーベの王家の谷を筆頭に、アビドス・サッカラ・ギザなど墓地とみなされやすい土地が多いことは事実であるが、だからといってナイルの東岸に墓がないわけではない。たとえば、エジプト南部のアスワンのフィラエ島の東岸には古代の共同墓地があり、エル=カーブのナイルの東岸にも岩窟墓がある。また、エジプト中部のテル=エル=アマルナにはアケナテン王(第18王朝)の家族をはじめとし、多くの墓が存在する。そして、ベニ=ハッサンは中部エジプト随一といってよいほどの中三国時代の墓地のあるところである。そこには39基の巨大な岩窟墓があり、その中には第11王朝―第12王朝の第16州の支配者たちの墓が少なくとも8基は含まれている。
いま墓地について眺めてきたが、ついでながら、都市がどちらの川岸につくられやすいのかを考えてみる。ナイルの東岸に繁栄した都市はエレファンティネ(アスワン)、テーベ(ルクソール)、ヘリオポリス(カイロ)と多いことはわかるが、ナイル西岸に栄華を誇った都市がないわけでもない。エジプト南部のエドフにはプトレマイオス朝の神殿や外壁がたくさんあり、アルマンとは第4州の州都を務めた町である。また、ルクソールの西岸はテーベの故人専用と思う人は多いだろうが、それは誤解である。第18王朝のアメンヘテプ3世はマルカタの地に王宮を営んでおり、ラムセス3世時代のテーベの政治・経済の中心はこの王宮の北東のマディナト=ハブであった。そのほか、デンデラはローマ時代の神殿で知られる土地であるし、エジプト中部のアスユートは第13州の州都として繁栄した町である。そしてもちろん、古王国時代の首都メンフィスは、氾濫原につくられたとはいえ、歴とした西岸の町には違いないのである。
このようにみてくると、東岸に都市が発達し、西岸に王家の谷が広がる現在のルクソールのように、土地の性質が明快に分離している例は珍しく、一般には、東岸・西岸の区別にかかわりなく、都市として栄えた土地に墓所も同時に営まれたのである。
ナイルの西岸が墓の専用地でないとすると、ピラミッドは、なぜ西岸に集中して建てられたのか。ピラミッドを王の墓でなく神殿と解釈してみても、エジプトの神殿は東岸にも西岸にも存在するから、それが西岸にのみ集中するわけはわからなくなる。ピラミッドがナイルの東岸を無視し西岸に執着した理由については、ピラミッドそのものの性質を分析することにより、次第に明らかになるであろう。