− 第二章 −
平安朝の貴族が愛用したにおいである香料はどんなものであっただろうか。
原料から見れば南シナ・東南アジア・インド・西南アジアの香料(薬品)を中国から
輸入していたから物の1つである。日本の国内に出したものは殆ど無い。このような
海外の品だった香料のにおいを王朝の貴族たちはどのように感じとったのだろうか。
『古今集』に歌われているように、春は梅と桜と山吹、夏は女郎花、秋はふじばかまと
菊など、四季おりおりにあく花や草木のにおいを通じてにおいを知り、感じ取ろうとしている。
ではどのような方法と手段で海外の香料を原料としながら日本人として楽しむにおいを作ったのだろうか。
香木、樹脂。幹と茎、枝、葉、根(茎)、花、実、種子」など、植物の各部分からできている香料は採取した原型のままよりも、
それを微粉末にする方が香気の発散は強い。そして各種の香料(薬品)を適当に配剤し調合すると、
一種類の香料のにおいではとても求められない円熟した、多彩で優雅な種々のにおいが、
それぞれの人間の智慧と医術によって作られる。これを香料の調合という。
平安時代、この香料の調合が流行するようになった。これは、飛鳥・奈良時代の大陸からの外来文化を否定し、
新しい日本の文化を作ろうと模索していたなかで、似たような物を合わせることによって斬新な文化が生まれることを知ったからだ。
たとえば、衣裳の彩りにしても、色を少しずつずらして重ね合わせることによって、
温暖で、しかも四季の変化に富んだ日本の気候風土から生まれた色彩感覚を満足させる配色が生まれた。
香りの場合も香料を色々組み合わせることによって、まったく新しい雰囲気を創りだすことを知ったのだ。
さらに、歌合せ、根合わせ、菊合わせなど同じ種類のものを持ち寄って優劣を競う「薫物合わせ」が生まれる。
煉香というのは、数種類の香料の粉末に蜂蜜や梅肉、甘葛、海蘿、炭、塩などを煉り合せて、丸薬状にしたものを言う。
煉香には梅花、荷葉、侍従、菊花、落葉、黒方という文学的な銘がつけられ、処方が公開されるなど、貴族の知的な遊びにまで発展した。
一方、香木や香草などをそのまま絹の袋に入れて吊り下げる掛け香や衣服ににおいをつけると同時に防虫、防腐、殺菌効果をもたせたえび香とかにおい袋などは、
現代のポプリとかサッシェのような使い方だろう。
香料には、香りを楽しむという真理的な効用のほかに、防腐・殺菌作用という、ほぼ共通した効果があるので、
煉香りを楽しむ遊びだけでなく、髪や衣裳、文書などに香りを焚きしめた。
平安貴族文化から、やがて武家文化が台頭してくるが、武家には公家のように煉香を作ってきた歴史も伝統もなく、
したがって、処方も無かった。それよりも、数種類の香料を鉄臼に入れ、五百回から千回も搗くということで、香木だけを焚くようになった。
経済的にも豊かな武将は、南方の各地から香木を蒐め、楽しんでいたようだ。
有名な話だが、『太平記』に出てくる大原野の花かいで、南北朝時代の武将佐々木道誉は一斤の名香を一度に焚きあげた。
一斤というとおうよそ600g、いま普通お香の席で焚く香木は米粒ほどだから、大変な量だ。
その道誉の蒐めた膨大な香木を、足利義政の時代に三篠西実隆と志野宗信がはじめて、香を本に分類したと伝えられている。
香の分類は、今でもでもまだ完全なものではできていない。それほど難しい問題なのだ。
そこで、味覚の分類である「甘・酸・辛・苦・鹹」と。産出国の違いなどをあてはめて分類した。
産出国といってもはっきりしないが、「伽羅・羅国・真那蛮・真那伽・佐曾羅寸門多羅」で、
これらを組み合わせたのが「六国五味」という分類法だ。
このようにして香木の香りの分類ができるようになったので、薫物の銘にならって香りのイメージを文学的に表現する香銘、
たとえば、「初音」、「白菊」、「紫舟」のような雅名が」つくられ、さらに作法も考案されて香りをあてる遊芸、行動が茶道、華道とともに生まれた。
江戸時代も元禄以降になると、香道は一般にも普及するようになった。この事により香料が全国へと広まっていった。
又、髪油。白粉、洗い粉、歯磨き粉などの化粧料ににおいをつけるようになったのも同じ頃だ。
しかしこれより早く伽羅すなわち沈香を焚いて髪ににおいを焚きしめることは行われている。
いつの世でもそうだが、女性にとって特に美しくという願望は変わらない、現代の整形がそうだろう。
江戸時代の中期から花術を中心にして化粧の秘伝が相当伝わっている。
そのなかで特に香料薬品を使用した例を『都風俗化粧伝』からあげよう。
色を白くする薬、官粉10匁、密陀僧(一酸化鉛、鉛丹)2匁、白檀2匁、軽粉5匁
蛤粉5匁を、細粉にし、玉子の白身にとかして塗り、糠で洗う。
その他色々秘薬の原料に香料薬品を使っているが、どこまでが事実でどこからがミステリーなのか解らないものが多い。