いぬい・とみこ論―初期のふたご物語を軸に―
はじめに
いぬいとみこの代表的幼年童話『北極のムーシカミーシカ』には、不可解な章がある。食う、食われるの関係にある動物たちが、年に一度平和に集う「夏のまつり」の章である。
いぬいは、動物の生態を尊重する作家である。たとえば、『ながいながいペンギンの話』では、初版から33年後の1990年に、新しい知見に基づき、抱卵の様子や繁殖の時期などを書き改めている。そのため、作品のテーマにいくぶんかの変化が生じたにもかかわらずである1)。自然の生態に忠実であろうとする点では、『北極のムーシカミーシカ』も同じでありながら、「夏のまつり」の章は、生態を無視した。小稿では、この矛盾をどう受け止めるべきかを考えてみたい。なお、念のために、ここでいうふたご物語とは、『ながいながいペンギンの話』と『北極のムーシカミーシカ』である。
1
『ながいながいペンギンの話』は、それまでの広介、未明らの幼年童話とは一線を画す作品として文学史に位置付けられている。いぬいは、新しい幼年童話をどのようにイメージしていたのだろうか。幼年童話観を直接うかがうために、いぬいの評論「幼年文学における現実と空想の間―同人雑誌の作品をめぐって―」2)をみてみたい。これは、中川李枝子「いやいや園」と小川未明「なんでもはいります」(いぬいの引用の表記に従う、以下同じ)を対照的にとりあげて論じたもの。
「なんでもはいります」は、「正ちゃんは、かわらしい子どもです。だから、きているうわぎもかわいらしく、それについているポケットも、もとよりかわらしいのでありました。」で始まる、原稿用紙1枚に満たない掌編。正ちゃんのポケットには、ミルクキャラメルのほかなんでも入るが、おかあさんから、大きな蜜柑をもらったので、「こればかりは、小さなポケットに、はいらなかろうとおもっていると、正ちゃんはおねえさんに皮をむいてもらいいくつにもわけて、ポケットにいれました。」というもの。これを幼年童話の典型とした奈街三郎への批判をまず述べたのち、「私は、この短い作品から、作家の創造的創造力の貧しさと、テーマや文脈や主人公の不明確さを感じとらざるを得ない。」(60頁)として、「黒い活字をたどって、子どもは文学の中にもう一つの別の生を生きようとしているのに、このような片々とした無内容な作品の中へは、入っていって生きることは到底できない。」(61頁)と批判した。奈街がなぜ幼年童話の典型としたかへの考察が抜け落ちているが今は措く。注目したいのは、「子どもは文学の中にもう一つの別の生を生きようとしている」という発言である。「別の生を生き」るためには、どのようなことが要求されるか。いぬいには、さしあたり次の2点が必要だと思えたのではないだろうか。
ひとつは、「無内容な作品」ということばや、「いやいや園」を評して、「子どもの心の現実と空想の混合する部分を、行動によって追っている楽しい作品」としている点から推察してストーリー性である。後にも触れるが、『北極のムーシカミーシカ』を「婦人公論」に連載したおりの反省として、「読者を意識しすぎて、ストーリーの変化をおいすぎた」3)点をあげているのも、ストーリー性の重視を示している。
もうひとつは、明確に述べているわけではないないが、子ども読者、特に、幼年読者が、登場人物に感情移入できることだったと思われる。いぬいのいう「主人公の不明確さ」は、視点(語り手)が正ちゃん自身にあるのではなく、「はいらなかろうとおもっていると」の部分から分かるように、正ちゃんを外から眺めている大人にあるからではなかったか。「正ちゃんは、かわらしい子どもです。」と「きているうわぎもかわいらしく」云々との間に、因果関係はない。にもかかわらず、「だから」という因果関係を示す接続語で結ぶところに、子どもが、あるファイルターを通して見られているのは明らかである。つまり、生身の子どもが見えにくいので、「不明確」になるのだとすれば、読者が感情移入できるような、生き生きした子どもが登場しなければならない。そのためには、登場人物と、読者の内面との重なりが不可欠となる。
「いやいや園」をめぐる発言で、気になることがある。全体としては保育者よりの読後感が強く、〈しつけ〉を感じさせる「チューリップ保育園」を、保育者と園児とを「各々の特性が倫理的判断を含めずに対比的にかかれている点が、ユーモラスな魅力を形づくっている」と評した部分である。いぬい自身が、保育者的視点から離れ切っていないようなのである。いうまでもなく、いぬいは、保育者を志望し、保育を経験している。もちろんあからさまな教化意識はなかっただろうが、子ども読者へのメッセージを相当に意識していたと考えられる。〈しつけ〉の側面には触れず、単に「対比的にかかれている」だけとするのは、〈しつけ〉にほとんど疑問をもたなかったからであろう。作品にかくあるべしとのメッセージをこめる姿勢は、「夏のまつり」が明確なメッセージを持っていることをにつながっている。
『北極のムーシカミーシカ』を発表したころのいぬいの幼年童話観は、「現実と空想の混合するあわいこそ、「幼年童話」の積極的な可能性の根源の場所であり、そこを科学的に見きわめることによって、作家が自分の創造的創造力をフルに賭けてゆく場所が発見され、それが「幼年童話」に飛躍的な芸術性を与えると私は考える。」4)ということばに要約されるであろうか。「現実と空想の混合するあわい」とは、小稿の目論見に照せば、動物の生態に基づいた動物物語ということになる。
では、いぬいは、動物物語をどうみていたのか。
擬人化も含め、さまざまな形で動物が描かれるのは、児童文学の特徴のひとつに数えられる。子どもは、人間よりも動物に親和感を持つ、というような理由以外には、たとえば、岡野薫子のように、「動物たちを登場させることによって、物語の舞台をひろげ、また、変った角度から人間をみつめることができはしないか――という考えからである。」5)と、創作方法と関係付けている作家もいる。いぬいの場合は、岡野ほど意識的に述べてはいない。ただ幼少のころから犬を飼っていて、動物好きだったというのが大きな理由だという6)。しかし、動物好き以外にも理由はあったはずである。先述の「現実と空想の混合するあわい」に照らし合せてみると、動物という「現実」と物語という「空想」があったのではないか。そのさい、いぬいの親しんでいた欧米の児童文学から学んだことも少なくないと思われる。
いぬいは、同人誌「麦」に評論を寄せ、次のように動物物語を5つに分類している。それは、「(A)寓話」「(B)民話」「(C)動物物語」「(D)動物小説」「(E)記録的動物小説」7)で、(A)(B)は擬動物化された人間の物語、(C)は、擬人化された動物の物語、(C)は、基底に実際の動物がいて、(D)(E)よりは人間的な行動をするが、(A)(B)よりは、実際の動物の性質を備えている。それぞれ例として作品名が添えられている。(C)の例には、「象さんババール」「おさるのジョージ」「ピーターうさぎ」があげられている。いぬいの目指すところも(C)の分野であったのはいうまでもない。
分類を示したあと、いぬいは、このどれにもあてはまらない「安易な動物の扱い方のもの」には、疑問をむけてみるべきだと説く。というのも、「「安易な「擬人化」や、習慣的「擬人化」は、童話(ことに幼年童話)を書く場合には大いに否定すべき」8)だからである。「リアルな基礎の上に立ち、しかも楽しい幼年童話を」9)目標として『ながいながいペンギンの話』は書かれた。その当時をふりかえって、
私が作品をかきはじめたころ、幼年向きの童話といえば、わんわんとかネコチャントカ、コグマのころちゃんとか、じつにあまったるい名称のもとに、安易な話が横行していたので、私は愛する動物たちに代って、そのリアリティーの乏しさに、義憤めいたものをかんじたこと。10)
と、述べているが、これを裏返してみれば、リアリティのある動物から、新鮮な話が生まれると考えていたことがうかがえる。つまり、安易で習慣的な擬人化が古い幼年童話だとすれば、それを打ち破る新しい幼年童話の動物主人公には「リアルな基礎」が必要だったのである。
ここで、注意しなければならないのは、いぬい自身が否定した広介も、ことばは違うが、「擬人化のばあいにおいて欠いてはならない個性を無視してしまっては、許されがたくなるのである」11)としていた。「個性」とは、その生物の生態も含めた特徴のことで、つまりは動物の生態の尊重を説いていたことになる。戦前幼年童話を多く残した北川千代もまた「私の本棚には、動物や植物の本がわりあいある。これは昔幼年童話を書いていた時分に、たとえ、話は空想的なものであつても、その動物や植物の生態の根拠は科学的にも正確なものでありたいとおもったからだった。」12)と述べている。いぬいが、はじめて幼年童話にリアルな生態をと、主張したわけではない。とすれば、どこが、広介などと違うのか。この点について、大藤幹夫の適切な指摘がある。いぬいの場合は、「ペンギンは等身大の自分であった。ペンギンの生きざまにこと寄せて自分たちを表現したかった。」のに対し、広介の場合、「個性は、書き手自身の個性に求められず、もっぱら技術、技法としてのそれにある。作者自身の個性(児童文学観)の投影としての擬人化を求めた現代日本児童文学とは、あきらかに一線を画していたといえる。」13)という。
この意見をとらえなおして、動物の把握が外からなされるか、内側からかと考えてみたい。すると、未明の「なんでもはいります」の正ちゃんは、外側から把握された子どもであったことが想起される。広介の擬人化も、対象を内面化しての擬人化ではなく、個性は外側にとどまるのである。ペンギンの場合は、いぬい自身の時もあれば、子ども自身であるときもある。どちらにしても、内側に存在することに違いはない。ここが大きく異なるといえよう。
いぬい作品では、「リアルな基礎」のうえにたっているので、人間と動物の間に会話は成立しない。これには、小沢正が疑問を投げかけている。
いぬいさんが対話の能力を与えなかったばかりに、動物たちは〔カンガルーを救出するのに―引用者注〕へとへとにならざるを得なかった。人間と動物に言葉をかわさせるのは、〈リアルな基盤〉に反することなのだろうか。14)
「人間と動物に言葉をかわさせるのは、〈リアルな基盤〉に反することなのだろうか。」は、いぬい文学の本質にかかわる重要な問である。いぬいは、それまでの幼年童話を乗り越えるために〈リアルな基盤〉をスプリングボードとしたのだが、小沢正は、そのいぬいを越えるために、トラゴロウに人間と言葉をかわさせた。動物と人間の会話が可能かどうかは、文学の本質にとって大きな問題ではない。しかし、いぬいの創作方法には、重要な問題であった。それは、『ながいながいペンギンの話』の時代がはらんでいた問題でもあった。小沢正の発言は、いぬいが〈リアルな基盤〉による動物物語を切り拓いた後であるからこそ可能だと、いうべきであろう。
2
いままで動物物語をめぐる基本的姿勢について検討してきたが、技法や文体はどうだったのだろうか。
何を書くかは、どう書くかと表裏一体とみるとき、いぬいが、「子どものよろこびをどうのばしていくか、子どもの冒険心をどう発展させるか」15)と、幼年童話について語ったことばと、『ながいながいペンギンの話』を「映画的手法でやろうと思ったのね、無意識に。いまも映画、大好きです。」16)を重ねると、冒険を語る方法として、映画的手法を意識していたことがわかる。そのためか、2編のふたご物語は、どちらも紙芝居になっているし、アニメにもなっている。ドラマツルギーの視点からみてみると、『ながいながいペンギンの話』の主人公を性格気質の相反する双子に設定したのは必然といってもいい。
冒険には危機が必要である。ペンギンにしてもクマにしても、主人公が2人いるなら、危機との遭遇もそれぞれに必要となる。このため、いぬいも執筆メンバーの一人だった『子どもと文学』の主張である、モノレール型のストーリー展開をとることができなくなった。モノレール型とは、時間と事件が直線的に進行することをいう。しかし、〈ふたご物語〉では、2匹の主人公が同時に危機に遭遇するので、ひとつの場面を語り終えたあとで、時間をさかのぼってもう一つを語らざるを得なくなる。だが、この点に関しての批判はなかったようで、はからずも、『子どもと文学』のモノレール型は、どれほど有効かと疑問を投げかける結果となった。
これに対し、文体には批判が寄せられた。いぬいは、次のように回想している。
『ながいながいペンギンの話』が本になってから、欧文体で子どもにわかりにくいって、さんざん保母さんから言われたんです。その欧文体は、鳥越信さんも含めて耳から聞いてわかる日本語にしようとしてやった〈子どもの本〉の文章づくりの影響じゃないですか。17)
ここでは、耳からの理解に「欧文体」となった原因を求めているが、ほかにもいぬいの西欧児童文学への親炙や、「われわれの情緒的な日本語を論理的なものに鍛え直しつつゆかねばならぬ」18)という気持が、作用しなかったとはいえまい。それにしても、聞いてわかる日本語の試みの影響というのは、どういうことだろう。そうであれば、むしろわかりやすい文体になるはずではないだろうか。
冒頭部分を検討してみよう。
とおいとおい南極の島に、ペンギンのおとうさんがいました。/ あたりは、みわたすかぎり、まっしろい、ゆきと、こおりのはらっぱです。/ 木もありません。草もはえていません。目もあけていられないほど、ひどいかぜが、いちにちじゅう、こなゆきを、ふきつけています。/ おとうさんペンギンは、つめたいはらっぱに、じっと、うごかないで、立っていました。/ おとうさんペンギンは、足の上に、たまごをふたつ、だいていたのです。もしも、いま、おとうさんペンギンが、ここをうごいたら、ほかほかとあったまっている、ふたつのたまごは、すぐにつめたくなってしまうでしょう。」
(『ながいながいペンギンの話』理論社愛蔵版、1967年11月)
なにをもって「欧文体」というかは難しいが、こなれない表現という意味なら、人格以外を主語にした一文「ひどいかぜが(略)こなゆきを、ふきつけています。」、主語の「おとうさんペンギン」の不必要に置くことや「もしも」による意味の明確化がかえって不自然をもたらしていることなどがあげられよう。試みに、以上を踏まえて書き改めると次のようになろうか。
・目もあけていられないほど、ひどいかぜで、いちにちじゅう、こなゆきが、ふきつけてきます。
・ おとうさんペンギンは、つめたいはらっぱに、じっと、うごかないで、立っていました。/ 足の上に、たまごをふたつ、だいていたのです。いま、ここをうごいたら、ほかほかとあったまっている、ふたつのたまごは、すぐにつめたくなってしまうでしょう。
元来いぬいの文章は、評価が高い。『空からの歌ごえ』を評して、「非常にていねいな書き方なので、読む私もていねいに読んだ。才能のない作家が書いたら、ほとんど読むに堪えないだろう、火山物語りの、山が爆発するところなどの描写は、実にすばらしい。一行一字のむださえない。削って削って、磨いて、宝玉のような文章によって書かれている。」19)という意見もあるほどである。それが、『ながいながいペンギンの話』で、一部であるにせよ、くどくぎこちない文章になったのは、「耳から聞いて分かる」が、観念的であって現実の子どもに確認するなどの手続きをしていなかったからだろう。『北極のムーシカミーシカ』の場合には、その反省があった。『北極のムーシカミーシカ』は、「婦人公論」が初出であるが、単行本になる前に「麦」に再度連載しかけている。その「はじめに」で、小学校2年の「お友だちの前で一部を読んだことも、前の作品の大人のひとりよがりを悟る手がかりとなりました」20)と記している。特に文体について述べているわけではないが、当然文体も含めてのことと思われる。文体もまた手探りの状態だったわけである。
3
ふたつの物語は、南極と北極という両極を舞台にしている。いぬいは、その理由を、
日本の児童文学にしみついていたおとな好みの感傷性をすてて、主人公の成長とか個人と集団の問題とか友情などを単純にえがくには、日本を舞台にしてかくより、広大な極地を舞台として、動物の子どもたちの姿でかくほうが、私にはやさしく、たのしかったわけです。21)
と述べている。
では、「単純にえがく」ためには、日本より「広大な極地」の方が「やさしく」書けるのはなぜか。長谷川潮は、「自分の展開しようとする物語が、日本の社会の歴史的現実と噛み合わないことを感じたからである。つまり、この作品の基盤である近代市民社会のモラルが、わが国で普遍的だったことはないのである。」と論じた。22)長谷川潮のいう「近代市民社会のモラル」とは何かが分かりにくいが、そのこととは別に、物語が日本の社会の歴史的現実と噛み合わないから舞台を極地に設定したという説は、積極的に肯定しがたい。動物が主人公なのだから、どのようにも描けるはずだし、むしろ日本を舞台にすることで、人間社会を批判するものとしての動物社会という方法も考えられる。同時代にはあまり良く知られていなかったペンギンや北極グマを主人公にしたところから類推すると、子どもの好奇心にも配慮したのかもしれない。また、極地には、もっとも厳しい環境というイメージが強い。『ながいながいペンギンの話』の巻末「作者のことば」の最後に置かれた「ケ、ケ、ケーオ ケオケオ、オー(さあ、どんなあらしがきても、まけないでいようね!)」23)が、きびしい現実を生き抜けとの励ましが表明されているとするなら、極地は、子どもの厳しい現実を暗に意味することになる。さらに、極地に住む動物の種類は他の地域にくらべて少なく、おのずと登場人物が制限されてくるので、子ども読者の理解度を考えたとき、物語を作りやすいこともあっただろう。新しい酒には新しい皮袋が必要と、従来取り上げられたなかった極地を選んだということも考えられる。ただ、これらが執筆前に計算されていたというのは、早計かもしれない。結果的に、こうした諸要素がうまくかみあったところに、長編の幼年童話が待たれていた時代状況もあって24)、新しい幼年童話が誕生できたのである
『ながいながいペンギンの話』から『北極のムーシカミーシカ』への過程で変化したものもあれば、しなかったものもある。ストーリー展開の興味性は、読者を物語世界に誘うのに、欠かせない條件であるから、冒険譚の性格は、変化しなかった。読者を意識する作家としては、冒険を盛り込む必要があった。では、その冒険を通して何が描かれたのか。ペンギンでは言及されなかった最大の問題は、生存の不条理、すなわち他者の犠牲の上に生があるという事実であった。
最初に、〈食う食われる〉問題が暗に提示されるのは、ミーシカがあざらしの子のオーラと遊んでいると、オーラの母親がきて引き離す場面である。この場面は、初出(「婦人公論」)、単行本(理論社)、いぬい自身による紙芝居版(童心社)で、ほとんどかわらない。
《初出》
けれども、こわい、いきものは、じろっとミーシカをにらみつけると、小さなオーラをさきにたてて、海へ沈みながら、いいました。
「およし! らんぼうものの白クマは、アザラシの子の友だちになんか、なれないのだよ!」
*
ミーシカは、こんどこそほんとうに、かなしくて、いつまでもいつまでも、なきました。
《単行本》
けれども、こわい、生きものは、じろっとミーシカをにらみつけると、ちいさいオーラをかばうようにして、うみにもぐりながらいいました。
「およし! らんぼうな北極グマの子は、アザラシの子の友だちになど、なれないんだよ!」
*
たったひとり、うみべにのこされた、ミーシカは、うおううおうと、こえをたててなきました。
《紙芝居》
けれども、こわい かあさんあざらしは、ミーシカを こわい 目で、にらんで、「およし、オーラ。らんぼうな くまの 子は、あざらしの 子のともだちには なれないんだよ。」
ミーシカは、すっかり びっくりして、なくばかりです。
(童心社、昭和44・2・1)
母親アザラシのせりふをみると、初出から単行本、紙芝居と微妙に語調は柔らかくなっていく。読者対象が少しずつ低くなる可能性に配慮したのかもしれない。地の文にくらべてせりふの部分は、ほとんど削られていない点に注目したい。字数を大幅に制限される紙芝居でも、この台詞はどうしても残しておきたかったのである。この問題が、いぬいの心のうちに占める大きさを示している。
すでに触れたが、「婦人公論」掲載後、「麦」に改稿して連載をはじめる。(ただし、「麦」は連載を始めた号で終刊になったため1回だけに終った)。連載にあたっての「はじめに」で、「婦人公論」発表作の不満を3点あげたなかの1つに、「読者を意識しすぎて、ストーリーの変化を追いすぎた。」25)がある。もっとも、「婦人公論」の連載予告では、「八月号からは、北極の雪や氷の中で活躍する白い熊のお話が始まります。可愛いい双児の白熊がどんな冒険をするでしょうね。」26)と、冒険物語として位置付けられていたし、連載だから、毎回興味をもたせるとすれば、ストーリーに重点がおかれるのもやむを得ない。いぬいの反省のことばにもかかわらず、初出のストーリー展開はほとんど単行本にもいかされていて、大きな削除はなく、加筆された部分が大きい。
ムーシカが白鳥に送られて家に帰ってきたあと、「火のまつり」(単行本では、「夏のまつり」)の場面になるが、単行本では、その間に、母グマが、アザラシを食べる場面にミーシカが衝撃を受ける場面や、父グマがアザラシの血を飲ませて2匹の子グマを助けてくれたこと、人間の猟のことなど〈食う食われる〉に何等かの意味で関連のある場面が挿入され、分量が倍増している。そのため、神宮輝夫のことばをかりるなら、「『ながいながいペンギンの話』よりも、はるかに重量感と迫力とがあります。」27)となり、読者もまたそれを感じ取っている。28)
いぬいは、宮沢賢治に傾倒した時期があるという。とすれば、当然「よだかの星」は読んでいただろうが、そこまでの葛藤は子グマたちにはない。小沢正は、「〈生きるためには他者を食わねばならぬ〉という世界の根元的な構造、その矛盾を食物連鎖論の中に、つまりは科学の中に、つまりは〈リアルな基盤〉の中に還元し解消させた。」29)と、指摘する。が、いぬいは、ここに安住できず、「夏のまつり」の章を設定した。
「夏のまつり」の場面は不評である。斎藤惇夫は、「《夏のまつり》の章は良く描けており、いぬいさんの空想の質の美しい具体化の例の一つなのだが、物語全体の構成から考えると、自然な結末とは思えない。」30)といい、萬屋秀雄は、「北極グマの冒険を通して認識してきた自然のきびしさが、この場面で、いっきょにくずれはしないか、と私は危惧する。特に人間と動物の交流が安易に実現されているのにも無理があるようにおもわれる。」31)という。
だが、いぬいが、「でも、私にとってはあそこが書きたくて書いたようなものです」32)とこの章に執着したのも確かなのである。その理由を、つぎのようにいう。
行動的で楽しい幼年文学を、「ペンギン」と同じ手法では書けませんでした。朝鮮戦争とかベトナム戦争の問題が、私の心のうちに迫っていたのです。平和な《夏のまつり》の一日をどうしても書きたかった時代でした。(略)また、母ぐまがアザラシの肉を食べる姿にミーシカがショックを受ける場面も、書かざるを得ませんでした。そして人間が民族同士、互いに争い合う現在こそ、北極グマたちの《夏のまつり》が私たちに、いまもまた必要であることは悲劇です。33)
いうまでもなく朝鮮戦争は、『ながいながいペンギンの話』発表以前の1953年に休戦になっている。ベトナム戦争は、50年代後半に、サイゴン政権が、反対勢力を一掃するべく、南への党組織や、抗仏戦争参加者に対する弾圧を強化したとはいえ、アメリカ軍が北爆を開始するのは1965年になってからのことである。動物たちが一堂に会する「火のまつり」のエピソードが「婦人公論」に発表された1957年には、さほど人々の大きな関心をひく出来事ではなかったと思われる。とすれば、いぬいの非常に強い社会問題への意識、あるいはヒューマニズムの意識が鋭敏であったことを、これらは示している。
4
ふたご物語とほとんど同じ時期の作品に生活童話風の「ツグミ」がある。日本児童文学者協会新人賞を受賞して、一般にいぬいが知られる契機となった作品である。いぬい自身は「ツグミ」には不満で、受賞にとまどいがあり、挨拶で「こんな作品」と発言したという34)。では、おざなりに書かれたのかといえば、そうではない。「この作品に愛着をち、一年くらいあっためていた題材が、一つの作品になつたことに深いよろこびを感じていました。」35)と心境をもらしている。しかし、「根本的な欠陥」(同上)を感じていたことが、「こんな作品」という発言につながった。「ツグミ」のようなリアリズムの傾向はいぬい本来の志向ではなかったと、次のように言う。
自分の書いた作品として「ツグミ」というのは非常に満足じゃなかった。何かこうファンタジーみたいなのが自分の書きたいものだという心があった。36)
志向するジャンルの作品ではなかったがゆえに、欠陥を内包してしまうことになったものだろうか。本来の志向ではないにもかかわらず「ツグミ」を書かざるを得なかったことは、作家内部のエネルギーがいかに大きかったかを示している。しかし、視点をかえると、自己の内的エネルギーを、もっとも効果的な形で放出できるように制御するのが難しいということでもある。もちろん、いぬいだけがそういう制御能力が乏しいわけではない。おそらく文章をかくという行為は、そういう側面を包含している。ただいぬいの場合、他の多くの作家よりもそれが目立つのである。ひたすらに純粋なエネルギーを注ぐことが、かえって負の効果をうみだしてしまうと承知していても、そうせざるを得ないのである。
いぬいは、「ツグミ」などの系列とファンタジーとの関係をつぎのように述べている。
私の中で自分になかったものを探してやっていく一つの系列が「ツグミ」であり、『うみねこの空』であり、いま私が書き終えた、『光の消えた日』(仮題)の系列なんですけれど、そっちの努力をしなかったら、ファンタジーの系列のほうも深まっていかなかったように思うのね。」37)
「ツグミ」の観念性は、早くから指摘されている。38)しかし、くり返すことになるが、結果として観念的であっても、作品にしたいという思いがあったのであり、それが、いぬいの根底にあるものである。それを、社会正義というか、ヒューマニズムというか、自然愛護というかは、論者によって異なるだろうが、痛切な問題意識にかわりはない。ちなみに、「ツグミ」は、「その後に進行したすさまじい自然破壊を考慮にいれると」「現在なお読まれるに値する」39)という意見もある。
前節で、いぬいが、「夏のまつり」の章に込めた思いを引用した。そこでの生存の不可避的不条理と、戦争を同一視する比喩の是非は問うまい。動物の生態に基づくといいながら、生態を無視してまでかくあるべしと理想ないし願望を描いてしまうことだけが問題ではない。死んだはずのマーシカの母グマが、「夏のまつり」で生き返るというストーリー展開上の不合理もある。「お話の終わりに出てくる死と再生の問題も、マーシカの母親を殺してまた生かしているでしょう。そのことが子どもたちにわかりにくかったってよく言われたんです。」40)といぬいが、振り返っている通りである。生命の連続性を語ろうとしているのだが、子ども読者に受け入れられるような方法でないにもかかわらず、語らざるを得ない衝動がある。作品が作家の実存の軌跡なら、動物の科学的事実がどうであろうと、実存を優先させるだろうし、いぬいは、そういう作家であった。それは、『ながいながいペンギンの話』の冒頭部分の抱卵場面が、登場するアデリーペンギンのものとは違っていることがわかっても、
日本の不毛な幼年文学の世界にあたらしい生命をみつけだしたいと、必死になっていた自分たちのすがたと、雪あらしに耐えて氷の原っぱに立っているペンギンのすがたとが、何かきりはなせない感じがして、手を加える気もちになれないのです。」41)
との考えから、書き改めなかったことに明らかである。1990年に書き改めているのは、時代が変わったと認めたからだろう。
いぬいは、自分のために書いて、そのまま子どものためにもなる作品として『木かげの家の小人たち』や『うみねこの空』をあげ、小稿の二つのふたご物語は、小さい子どもの理解力という制約が大きいので難しく、制約を越えた部分が作品に残ってしまうという。42)
マーシカの母グマの再生は、制約を越えた例である。また、「夏のまつり」のエピソードは、いぬいの「リアルな基礎」のうえにという創作方法をはみでたものである。しかし、いぬいの実存の軌跡としての動物物語には、「夏のまつり」が不可欠だったのも確かである。これを矛盾として、いぬいの限界を指摘するのはたやすい。しかし、なぜ「リアルな基礎」でなければならなかったのかということを考えてみるとき、いぬいの限界をみるよりも、いぬいの切り拓いた幼年向きの動物物語の可能性を、別の視点から問いなおす必要があるだろう。
注
1 酒井晶代「現代児童文学の行方―いぬいとみこ『ながいながいペンギンの話』をめぐって―」「淑徳国文」2000年3月3日
2 「日本児童文学」昭34年8月1日
3 「麦」12号、46頁
4 いぬい・とみこ「幼年文学における現実と空想の間―同人雑誌の作品をめぐって―」「日本児童文学」昭34年8月1日、59頁
5 岡野薫子「私の゛動物文学について゛」「日本児童文学」昭44年2月1日、61頁
6 「いぬいとみこ「あとがき」『四つのふたご物語』理論社、1993年4月日付無」など参照
7 「動物ものがたりの主人公たち」「麦」昭33年4月1日、45頁
8 注7に同じ、44頁
9 「はしがき」『ながいながいペンギンの話』宝文館、昭32年3月5日、初版
10いぬい・とみこ「なぜ動物を主人公にした作品をかくか」「日本児童文学」昭44年2月1日、52頁
11 浜田広介『童話文学と人生』集英社、昭44年2月28日、30頁
12 北川千代「私と幼年童話」「日本児童文学」昭27年8月5日、11頁
13 大藤幹夫「擬人化にこめられた世界―動物文学的な作品を中心に―」「日本児童文学」平6年4月1日、84頁
14 小沢正「解説」『ぼくらはカンガルー』(講談社文庫、昭55年8月15日、170頁
15 いぬい・とみこ「幼児の成長と文学」「日本児童文学」昭43年12月1日、35頁
16 『現代児童文学作家対談6』偕成社、1990年1月日付なし、36頁
17 注16に同じ、33頁
18 いぬい・とみこ「幼年文学における現実と空想の間―同人雑誌の作品をめぐって―」「日本児童文学」昭34年8月1日、62頁
19 吉田タキノ「ある偏見―木暮・いぬい・斎藤三氏の作品集から―」「日本児童文学」昭40年4月1日、70頁
20 「麦」12号、46-47頁
21 いぬいとみこ「作者あとがき」『北極のムーシカミーシカ』理論社愛蔵版、1977年6月日付なし、204頁
22 長谷川潮「『ながいながいペンギンの話』論」「日本児童文学」昭47年5月1日、47頁
23 理論社愛蔵版、1967年11月日付無
24 「幼年童話として、現在、発表されているもののうち、新聞の三、四枚のものは、わりあい、良心的なものといわれている。けれど、枚数の少いのは、なんとしても、致命的だといえよう。(略)岡本良雄が、「もつともつと、長い話を「「」と、書いていたように、幼年ものにも、充分、あてはまる問題だと思う。」(神戸淳吉「幼年童話の明暗」「日本児童文学」昭29年11月25日、7頁、)
25 「麦」12号、46頁
26 「婦人公論」7月号、昭32年7月、270頁
27 注16に同じ、41頁
28 「いぬい作品では、ペンギンの方が一般的に完成度が高いといわれるが、読んだ数と逆に子どもたちはムーシカ・ミーシカをとった。鳥よりも哺乳類の方が身近かだという点もあろうが、もっとこの作品の中にある親子と友情、食物と動物の生命などについて、子どもの心の中に深い陰影をなげかけている問題があって、この印象がつよかったのだろう。」(増村王子「子どもの目から見たいぬい・佐藤・山中文学」「日本児童文学」昭44年6月1日、64頁)
29 小沢正「解説」『ぼくらはカンガルー』(講談社文庫、昭55年8月15日、168頁
30 斎藤惇夫「解説」『北極のムーシカミーシカ』フォア文庫1979年10月日付なし(1990年11月日付なし38刷)、222頁
31 萬屋秀雄「いぬいとみこ小論―記録児童文学の可能性をさぐる―」「児童文学評論」昭49年5月30日、21頁
32 注16に同じ、40頁
33 いぬいとみこ「あとがき」『四つのふたご物語』理論社、1993年4月日付なし、721-722頁
34 いぬいとみこ「「つぐみ」をめぐって」「馬車」4号、1955年3月26日、35頁
35 注34に同じ、35頁
36 「キリノさんの昨日・今日・明日」上野瞭との対談、「日本児童文学」昭和53年9月1日、13頁
37 注36に同じ、24頁
38 「馬車」2号(昭30年1月30日)が「ツグミ」の批評を特集た。
39 木島始「解説」『いさましいアリのポンス』講談社文庫、昭53年3月15日、196頁
40 注16に同じ、42頁
41 いぬいとみこ「作者のことば―第三十三刷にあたって」『ながいながいペンギンの話』理論社、1974年1月日付無し、39刷による)
42 いぬい・とみこ「幼児の成長と文学」「日本児童文学」昭43年12月1日、35頁
(掲載=大谷大学短期大学部幼児教育科研究紀要」4号、2002.12.20)