2.「京中における親鸞伝承を訪ねる」コース            募集定員40

〔見学会申込要項〕

 参加を希望される方は、下記の申込用紙を郵送・FAXされるかE-mail(申込用紙と同形式でお願いします)にて、実行委員会事務局までお申込ください。後日、事務局よりコースの確認と振込用紙を送付いたします。参加費(両コース共5,000円)は事前納入に限ります。
 各コースとも一定人数に達しない場合、見学会を取りやめることがあります。
 なお、受付は先着順となりますのでご了承ください。





                                                  日本民俗学会第59回年会実行委員会
        
(FAX) 075-411-8015
                E-mail) nenkai2007@otani.ac.jp


                 ※電話での申し込みはご遠慮ください

        締 切: 7月31日(火)必着







見学会

 真宗の開祖親鸞が京都市中で暮らしたのは、比叡山修行を捨てて洛中六角堂に参籠し、さらに法然の吉水草庵に通い始めた1201年(29歳)から、越後流罪に遭遇する1207年(35歳)までの6年間、および関東からの帰洛が明らかな1251年(79歳)から示寂の1262年(91歳)までの晩年約10年間に過ぎない。事蹟が謎に満ちているだけに、江戸期になって東西本願寺派・仏光寺派の本山が京中に大伽藍を営むに及んで、親鸞讃仰の気運に乗って多くの親鸞伝承が生まれた。本見学コースは、そうした伝承を現地に訪ね、遺跡と伝承遺品の見学を通して民俗的高僧伝承誕生の背景を考えたい。

平安時代の中期、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇を中心として紀伊国の熊野三山(本宮・新宮・那智)への参詣が盛んとなった。世情を凝視していた『愚管抄』の作者慈円は「白河院ノ御時、御クマノモウデトイフコトハジマリテ、タビタビマイラセヲハシマシケル」と書かれている。この現象は「熊野詣」といわれ、後世の「蟻の熊野詣」という俚諺が生まれたほど一世を風靡した集団による寺社参詣であった。上皇・女院・貴族たちばかりではなく、むろん名もない民衆の熊野詣もおこなわれていたと考えねばならない。
 後白河法皇撰『梁塵秘抄』には―熊野へ参るには 紀路と伊勢路とどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道成れば 紀路も伊勢路も遠からず―とあり、難行苦行を要求された熊野詣の功徳をみごとに詠みあげた今様歌がある。
 京の都と熊野三山を結ぶ参詣の道は、慈悲平等の道であり、文化交流の道でもあった。寛治4年(1090)園城寺の増誉は、白河上皇の熊野参詣の先達を務め、その賞として初代熊野三山検校に補任された。以後、熊野三山検校の法務を営むため白河院の創建が許可されたが、これが聖護院の濫觴である。本山修験宗の総本山・聖護院(市内左京区)は京都における熊野文化の軸となる寺院である。
 また永暦元年(1160)後白河上皇は熊野三山を勧請した。すなわち新熊野神社(市内東山区)の創祀である。東山界隈は熊野文化の宝庫となるようになった。新熊野神社なる熊野の神木・梛の木は、葉は小さいが、熊野文化の象徴として大きいものがある。
 熊野三山に設置されていた本願所(寺)組織に所属し、全国各地に絵解きという手段をもって活動した熊野比丘尼たちも京都東山に集住した。彼女たちは、当初、近江国に抜ける蹴上の「びくに坂」で往来の人々に勧進していたが、やがて五条通、建仁寺周辺に集まったという。「洛中洛外図」「四条河原屏風」などの絵画には熊野比丘尼たちの活動が描かれ、京の殷賑を描くには熊野比丘尼の姿態はよき画材であった。
 京における熊野文化を訪ねる――それは日本の歴史、文学、民俗文化を熊野から眺める視点交換でもあろう熊野参詣企画の総本部・聖護院の景観、熊野関係の古文書、古記録、また、京の民衆に溶け込んで熊野信仰を説きつづけた熊野比丘尼のゆかりの場所であった東山六道界隈を散策し、珍皇寺や西福寺の遺存する「熊野観心十界図」「那智参詣曼荼羅」を会員諸氏に実見してもらいたいものである。

申込先:〒603-8143 京都市北区小山上総町大谷大学豊島研究室気付

1.「京都における熊野文化を訪ねる」コース            募集定員40