鈴木大拙略年譜  ※年齢は満年齢
1870年
 10月18日、金沢市本多町に生まれる(父鈴木良準 母増)
1876年
6歳
 金沢市本多小学校入学
 父鈴木良準没
1882年
11歳
 石川県専門学校付属初等中学科入学

 山本良吉、藤岡作太郎と会う

1887年
17歳
 10月第四高等中学校予科第一級に編入学

 この頃西田幾太郎と会う

1888年
18歳
 第四高等中学校第一学年中退

 高等科小学校助手となる

1889年
19歳
 石川県三川小学校転任、高等科英語教師となる
1890年
20歳
 母鈴木増没
1891年
21歳
 三川小学校退職

 上京、東京本郷駒込西片町十番地久徴に下宿

 安宅彌吉と出会う

 東京専門学校で、坪内逍遙に英語を学ぶ(四ヶ月後退学)

 鎌倉円覚寺洪川宗温(今北洪川に参禅(在円覚寺正伝庵)

1892年
22歳
 帝国大学哲学科選科入学

 洪嶽宗演(釈宗演)に参禅

 洪川宗温遷化
1893年
23歳
 シカゴ万国宗教会議出席の洪嶽宗演の講演原稿を英訳
1894年
24歳
 居士号「大拙」の初見
1895年
25歳
 5月、帝国大学文科大学中退
1896年
26歳
 見性体験
1897年
27歳
 渡米

 イリノイ州ラサールのポール・ケーラスの関係するオープン・コート社の一員となる

1906年
36歳
 洪嶽宗演ニューヨークで講演(通訳)、この時ビアトリス・アースキン・レーンと出会う
1908年
38歳
 渡欧
1909年
39歳
 英国滞在をへて帰国

 学習院、東京帝国大学の英語講師就任

1910年
40歳
 学習院教授就任

 佐々木月樵との親交はじまる

1911年
41歳
 ビアトリス・アースキン・ハーン来日、ビアトリスと結婚
1912年
42歳
 東京帝国大学講師辞任 国際スウェーデンボルグ総会に出席
1916年
46歳
 ビアトリスの母エマ・アースキン・ハーン来日
1919年
49歳
 洪嶽宗演遷化により参禅をやめる
 洪嶽宗演遷化
1920年
50歳
 学習院に辞職願提出
1921年
51歳
 真宗大谷大学(現大谷大学)教授就任

 佐々木月樵、山辺習学、赤沼智善らと大学内に東方仏教徒協会(EBS)を設立

1926年
56歳
 佐々木月樵示寂
1927年
57歳
 婦人ビアトリスの母エマ没
1934年
64歳
 大谷大学から文学博士号を授与される
1936年
66歳
 世界宗教信仰大会出席のためロンドンに逝く

 オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、アメリカの諸大学等で「神と日本文化」を講ずる

 翌年帰国

1939年
69歳
 婦人鈴木ビアトリス没
1942年
72歳
 山本良吉没
1943年
73歳
 西谷啓治の紹介で、妙好人浅原才市の詩を発見
 西田幾多郎没
1945年
75歳
 財団法人松ヶ岡文庫を設立(翌年認可)
1946年
76歳
 岩波茂雄没
1949年
79歳
 日本学士院会員となる

 文化勲章受ける

 ハワイ大学での第二回東西哲学者会議に出席

 安宅彌吉没
1950年
80歳
 アメリカのクレアモント大学、プリンストン大学、ハーバード大学で講義
1951年
81歳
 コロンビア大学「華厳哲学」の集中講義始まる
1952年
82歳
 コロンビア大学客員教授に就任

 米国資産家コネリアス・クレーンが松ヶ岡文庫へ寄付

1955年
85歳
 朝日賞受賞

 大拙の発願により「北京版西蔵大蔵経」(大谷大学蔵)の影印版刊行始まる(〜1961)

1957年
87歳
 コロンビア大学での講義終了

 メキシコで精神分析家エーリッヒ・フロムとのクェルナヴァカ会議

1958年
88歳
 『教行信証』翻訳着手

 ニューヨーク仏教協会で「真宗入門」の英語講演シリーズ

 帰国

1959年
89歳
 ハワイ大学で第三回東西哲学者会議に出席

 この頃、会長を務めた鈴木学術財団の本格的な活動始まる

1960年
90歳
 大谷大学名誉教授となる

 国賓としてインドを訪問

 出光佐三の寄付により松ヶ岡文庫第二書庫と研究室の改築、現在の姿となる

1961年
91歳
 柳宗悦没
1962年
92歳
 コネリアス・クレーン没
1964年
94歳
 第一回タゴール生誕百年賞受賞

 第四回ハワイ大学東西哲学者会議

1965年
95歳
1966年
 7月12日、東京聖路加病院にて没(享年95)
 石井光雄・・・没

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